ひふみよ

先月あった小沢健二のライブが今振り返ってもすばらしい内容で、いまだに余韻に浸りたくて最近は小沢健二ばかりを聞いている。
高校生の頃よくきいてた往年のあの曲!!懐かしい!!という感じよりも、いまの30歳の私が聞いてものすんごくぐっとくる音楽を、あのころすでに作ってたんだな小沢健二は。と思うとぞくぞくする。
そういう、なんだかとても特別な一夜になりました。たしかに愛にあふれていたよあの空間は。
一番大好きな「ある光」が2フレーズしかきけなかったことが唯一の心残りではあるけれど。
で、くわしく感想を書こうと思っていたら大山卓也さんの記事ばななさんの日記に言いたいことは全部書かれていたのでいっか、と思うことにする。
特に大山さんのこの部分には目からうろこ。あの曲を聴く角度が180度変わりましたよ。

ーーそういえば、この曲を演奏する前に小沢健二は「もう1曲の、感じたかった僕らを待つ曲です」って言ってたと思うんだけど……。あれどういう意味?

うーん、これも僕なりの解釈なんですが「自分を待つ本当の恋人とまだ出会っていない」っていうのが「ラブリー」と「愛し愛されて」の共通点だってことを言ってたんじゃないかな。

ーーん?

「ラブリー」は「いつか誰かと完全な恋に落ちる」ことを夢見てるけど、自分はまだ「夜が深く長い時」の中にいて「誰かの待つ歩道を歩いて」る状態を歌った曲ですよね。この解釈はほぼ異論のないところだと思います。で、「愛し愛されて」の主人公にも恋人はいないんです。

ーーあれ、でも「君の住む部屋へと急ぐ」って歌ってなかった?

恋人の部屋に行くために「突然ほんのちょっと誰かに会いたくなるのさ」なんて言い訳を用意する必要はないでしょう。ふぞろいな心を抱えたまま、やるせなく悩ましい日々を過ごしてる。そんな思いを歌った曲が「愛し愛されて生きるのさ」なんです。愛し愛されて生きることが何よりも大切なことだっていうのはわかってるし、そんな気持ちを愛すべき相手と感じ合いたいって強く思ってるけど、今はまだ「感じたかった僕らを待つ」時期だっていう。

ーーなるほど。

そう考えると、セリフ部分の意味合いもはっきりしてきますよね。「深夜に恋人のことを思って 誰かのために祈るような そんな気にもなる(日がいつか来る)のかなんて考えたりするけど」っていうことだと思う。それで、これから本当の恋人になるかもしれない、そんな相手がまぶしげにまつげをふせて、ほんのちょっと息をきらして走って降りて来てくれるんですよ。それは素晴らしいことですよね。愛し愛されて生きることの大切さをずっと信じてたからこそ生まれた景色だし。そんな希望に満ちたこの曲で、このコンサートが終わるのは本当に感動的だと思います。