どうも、どうも。
はあ、前回書いたのは7月でしたか。いかんですな。
もう、このブログ自体もどうしようかな…と思っていたのですが、堺ヲタとしてのあゆみが載っていて「あの発言、いつのだっけ」とか「ああいうことしたのって、どの番組でだっけ」みたいなときに振り返れるツールとして大活躍しているので、消さずにのけておこうと思います。
あまり、というか滅多に更新できないかもしれないけど、こういうふうに「これはついったでは語りきれん」みたいなときに使っていこうと思います。


今回の「月記」を読んで、私は「おお、なんて有難いことを言ってくれるんだこの人は!!」「そんなふうに言ってくれる人がいるってだけで、私はこの世界で赦されて生きていけるよ」という感じで号泣してしまったのだけど、みなさんはあれをどう受け止められたのだろう。
私は2004年にとってもとってもしんどいことが重なりに重なって、すべてから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった(まあ、実際「生きる」ということ以外は全部逃げ出してしまったのだけど)。病院に行って診断されたのだけど、それから6年たった今でも、自分が「うつ病」だったのか、よくわからないと思っていた(ちなみに今はもう病院にも行ってないし薬も飲んでません)。逃げたくて甘えていただけなんじゃないかとか、世間知らずで弱かったんだろうなとか、今でも滅入ると反省モードに入ったりする。
症状が人それぞれなのがまたこの病気のとらえにくさでもあるのだろうけど、うつの症状としてこれは共通して言えることなんじゃないのかなーと思ったのは、さかいさんのことばを引用すると

世間や周囲に申し訳なくおもうけれど、いつもの半分の仕事もできない。そんな自分が腹立たしく、余計グッタリする。

ということだ。うつのときは「仕事ができない自分の申し訳なさ」「家事すらできない自分の申し訳なさ」「何にもしたくないと思ってしまう自分がこの世で生きていることの申し訳なさ」で生きているといってもいいのではないかと思う。で、そういうふうにしか考えられないことを「うつ病」というのなら、私は十分うつ病だったんだろうなあと、やっと思える。
いまでも、「申し訳なさ」モードに突入することはたまにあるにしても、それが何週間何か月も続かないので、やっぱり私あの時おかしかったんだなと分かってきた。遅い、遅すぎる病に対する理解。


で、ここまで思い出しながら読んできて、まださかいさんの文章の半分までです。ここから急に役のために減量もしてみたというはなしから「やさしい」の語源について語りだされたものだから、「ん?」となっているところに、この文章ですよ。

時代がくだると、「やさし」には風流とか上品という意味がでてくる。これは心くばりや気づかいなど
「まわりのためにあれこれと、こころのカロリーを消費する」
ところから生まれたものではないだろうか。現代の「優しい」もまた、おもいやりがあったり、本来もっている欲望をおさえたりしている状態のことだ。そうおもうと、ついつい自分をせめ、うしろめたい気分になり、不安で、しばしば体重までおちてしまううつ病患者は、もっとも
「優しい」
ヒトビトといえるのかもしれない。

呆然としました。自分が「優しい」だなんて、絶対に思えない、思えるはずもなかったから。っていうか「優しさ」ってなんだろうな、と考えていたところだったのだ。
というのも、「実は優しいよね」と会社で言われることがあるのだけど、「実は、って余計ですよあはははは」と笑うのだけれど、全然ぴんときてなかったのですね。
会社がすごく旧態依然としたところで、それにすごく辟易していたので、私は、こうしたらもっと仕事しやすいんじゃないかなとか、みんな楽に気分よく仕事できるかもとか、いろいろ考えて仕事するようにしているんですね。だけど、私がそういう提案をしても、やっぱり周り(同時期に入ったような若手も)の反応は芳しくないので、かなしく思っていたのです。それで、あれっ私って一人で無駄な、余計なことしてるのかな、ともういろいろ考えすぎてひとりでうわーっとなっているときだったのです。これはまさに「ひとりずもう」ではないかと思って「あーめんどくせえ自分」と落ち込んでいたのです。
そういうことって別に「優しい」わけでもないし・・・と思っていて、逆に、「私って私のことしか考えていない、エゴの塊なのかなー」とものすごく自分のことを嫌な人間だなと考えていたところだったのです。実際それに近いようなことを心無い人から言われたりもしたし。
でも、そんなことをさかいさんが言ってくれるから、もうたまらなくなって、大泣きしてしまった。そうか、『まわりのためにあれこれと、こころのカロリーを消費』していることを「優しい」というのなら、私って十分「やさしいひと」じゃん!すごいことしてるんじゃん!と思ってすごくすごくうれしかった。そんなに自分を卑下することもないなって思えた。十分よくやってるよね、とたまには自分を褒めてやってもいいんじゃないかなとも。
で、そんなふうなことばをくれるさかいさんは、「俳優」として最強じゃないかとあらためて思った。精一杯心のカロリーを消費して、かなしみたたずむひとのまねをしたり、そういうひとを笑わせたりするひと、それが「俳優」ならば、こんなに「俳優」たりえるひとはいないと思う。「うつ病患者の役をするから」そうなんじゃなくて、さかいさんはいつもそうやって仕事をしていると私は感じる。それが役にも透けて見える。「うそっこ」を演じているのにさかいさんの思考には「うそ」がない。だからいつも作品を見てはこんなに心を揺さぶられてしまう。信頼し、尊敬できる。
あと、これはすごく個人的な話なんですが、一番しんどかったときに堺雅人の存在を知った(2004年の年末)ので、彼のおかげで私はここまで生きてこられたとも勝手に思っているんですね。もういなくなっちゃいたいな・・・と何度も思ったけどそのたびに「いやもう少ししたらドラマ始まるし」とか「舞台見られるし」とか「ナビエッセイ出るし」とか、そういう小さな希望や楽しみだけが私を生かしてくれていたと思う。信じられる存在が彼しかいなかったというのもなんともさみしいことですが、実際そうとしか思えない頭の状態だったのでしかたないよね。そういう意味でも堺雅人というひとは私にとってすごくすごく大切な、唯一無二の存在です。だから、あの、もう、彼に対しては「好き」とかいう次元を超えているのが本当に気持ち悪いんですが、「好きな俳優は堺雅人」と言っているひとのうちの1割は私と同じかんじなんだなということもわかりつつあるので、うれしいです。いつもありがとうみんな!!で、そういう気持ちにさせてしまう堺雅人万歳!!とも思っています、はい。


あとですね、もしいますごくしんどい思いをされているかたがいらっしゃったら、このインタビューと、私が1/26についーとしたことばをささげたいと思います。

宮崎「いい空気感」堺「わかったふりしない」 映画「ツレうつ」会見詳報
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY201101260598.html