「文・堺雅人」第11回

今回のおはなしは、「霊」。
いきなり「僕は幽霊をみたことがない」で始まるけれど、実は「霊」についてのはなしではない。
本テーマは、「何かが、みえるということ、みえないということ」。
「何かがみえる」というのは、オカルティックなことだけではなくて、たとえば、同じ風景を見ているはずなのに、自分よりはるかに大きく深いものをつかみとるだけでなく、こともなげに自分のモノにしてしまう、という才能のこと。
自分にはそのテのものはみえないから、みえるという人に出会うと、羨望や憧れ、嫉妬といった感情が渦巻く、と堺さんは言う。
有名人である堺さんがこういうことを言うと、「あんた、何言っちゃってんの?芸能人だし俳優だし人気もあるんだし、嫉妬したいのはむしろこっちだよ」と反感を覚える人もいるのかもしれない。
私は、芸能人でも俳優でもない、一般人の26歳の女である。でも、私が言うのもおこがましいけれど、「みえる人をうらやましく思う」という堺さんのことばは、本当によくわかって、思わず泣きそうになるほどだ。そして少し嬉しくもあった。堺さんでも、そういうことをぐるぐると考えたりするんだな、と。
それというのも、ついこの間まで私はそのことについて痛ましい程懸命に考えていたからなのであった。


わかってもらえるだろうか?
あるといわれている世界が「みえない」人間にとって、「みえる」人間たちから、「ほら、そこにあるじゃん」と当たり前のように言われる(言われなくても、そうであるかのように振舞われる)つらさを。
味わったことがあるだろうか?
あると信じていた世界――きっといつかみえるはずだと信じていた世界が、実は自分にはどんなに目をこらしてもみえない世界であることに気付いてしまい、奈落の底に突き落とされ、目の前が真っ暗になってしまう瞬間を。
そして、過ごしたことがあるだろうか?
「自分にはみえないんだ」ということに気付いているくせに、 「でも、どうして私にはみえないのだろう?どうしてあの人にはみえるのだろう?どうして?」と、考えてもどうしようもないことを考えてしまわずにはいられない日々を。
もちろん、一方では、
“ひとりひとりの目は違うから、自分には「みえない」ものが、相手には「みえる」のと同じように、自分には「みえる」ものが、相手には「みえない」ことだって、あるのだろう。私やあなたという、かたちの異なるフィルターを通せば、みえてくるものは違って当たり前なんだ。「好きな人とでも、同じものをみても、同じようにみえない」という事実は、時にはとてつもない寂しさを私たちに与えるのかもしれない。でも、だからこそこの世界はこうして存在し、美しい光を放つのかもしれない。そして、だからこそ人は人を好きになり、憎み合いもするのだろう。“
というようなことは、よーく知っている、つもりだ。
それなのに、なかなか「みえない自分」を認められないのだ。人一倍プライドが高くて、負けず嫌いで、ええかっこしいだから。その上私はやっかいなことに、自分のココロにウソをついて、みえないくせにさもみえているかのような振舞いをしてまでは生きられない、バカ正直で頑なな性格だった。いっそ、そうできたなら、どんなによかっただろう。どうせなら、そう生きられたほうが楽なのに。自分でたしかな実感として感じられるものしか受け入れられない人間もいるのだ。
しかしある日、私はハッと気付いた。
ぐるぐると、永遠に付き纏って離れそうにないこの考えの根底にあるのは、「嫉妬」や「ねたみ」という感情だということに。
しかもその対象が、自分の大好きな人たちだったから、余計に愕然とした。また、人の目なんか気にしないぱぁっとした性格だと自分では思っていただけに、そういう暗くてネチネチした感情を持つ自分に、正直がっかりした。
そう、私にとって何が一番おそろしかったかって、「みえる」人自身やその言動、というものに畏れを抱くのはもちろんだけど、その人に対して生々しくていらやしくてうすぎたない、マイナスの感情を抱いてしまう自分に気付いてしまうことだったのだ。
まあその時は自分のいやらしさにあきあきして絶望したけれど、ひととおり考えがめぐって最終的には、「なーーんだ、自分も、そんなたいしたことないな」と当たり前すぎるほどに当たり前なことに気付いたのですがね。どうも、自分自身に対するハードルが高すぎたようだ。そして、「自分ばっかりなんでこんな目に?!」という思い込みも、嫉妬を覚えていた人たちの本音を聞いて、「なーんだ、すごい人たちにも、悩みや不安はあるんだな」とやっと思えたことで、消えてなくなった。しかも、「みんな一緒じゃん!」と思えたことで、不思議なことに、いろんなことに俄然やる気が出てきたのです。「ひとりじゃないんだ」と心の底から思えると、人ってけっこうがんばれるものなのですね。少なくとも、私はそうみたい。


そういういい状態になっている時に、まさにグッドタイミングで堺さんに教えていただいたことば、「在すがごとく」。
以前の私ならいざ知らず、しかし今なら、これは決して「みえないくせにみえているふりをしている」なんていう傲慢な考え方なんかではない、と分かる。
どうせみえないんだからと投げ出してしまう(「みようとしない」)のでもなく、自分にはみえない世界を無理にみようとする(「みえるふりをする」)のでもなく、 「自分にはみえないけれど、そっかぁ、そこにあるんだぁー」と微笑んで、まずは「みえる」人のことやその世界を受け入れてみよう、という、無為的で愛ある行為なんだなぁ。
私は悩んだとき最終的には、「うん、この世界はみえないんだからしょうがない。でも、私にもちゃんとみえるものはあるんだから、この先はそのみえるものを大切にしていこう。」という考えに落ち着いた。まあ、今までこだわってたことをあきらめて、新たなものに目を向けたわけですな。
でもこれからは、堺さんが教えてくれた第三の道(「在すがことく」している)を歩けるように、精進したいと思う。
だってそのほうが、自分の愛する人や大切な人ともっと楽しく過ごせるし、新しく出会う世界や人に触れるときも、変な思い込みをしてせっかくのチャンスを自ら潰してしまわずに済む。そうしたほうが結局は、自分の人生をより豊かにすることができる。
堺さんのよくおっしゃる、「分かると分からないの間を行ったり来たりする(のが、一番誠実な人との接し方だと思う)」っていうのも、この「在すがごとく」ということばが軸としてあるんだろうなあ、って思えて、ちょっといろんなことがつながってきた感じがします。
 

そして、ふっと堺さんのことも考えてみる。
自分が「作り話に感じるウソが苦手」な人間である(=作り話の楽しみ方が、よく「みえない」)ことをよく知っている堺さんにとって、自分の役の存在意義を、他でもない自分が「みえない」(見出せない)というのはとてつもなく不安で、心許ないことなんだな、と。
実在する(した)人の役は、「確かにその人が、そこにいて、こんなことをした」というのが「(ほぼ)事実」だから、すんなりリアルを感じられて、安心して演じることができるから楽しい、のだろう。
でも、フィクションのときは特にだけど、「お芝居」というものが基本的には「作られた世界」である以上、演じるにはその世界を受け入れないことには始まらない。そのために堺さんは、演じる前にひたすら考える。何もない中考えるのは難しいので、可能な限りリサーチもする(まあ、もともと本を読んだり調べものしたりが好きな人ではあるけれど)。そして、充分に自分の中で咀嚼して、自分なりの解釈を持ってから、大きな渦の中に身ひとつでひょいっと入っていく。
自分にはみえない世界かもしれない、それを認めた上で、そんな自分にもたしかに感じられることを、感じたままに演じていきたい、というひとなのだろう。「実感」――自分の演じる役柄に、堺さん自身が「リアリティ」を感じられること――こそが、堺さんが演技をする時に必要不可欠な、唯一のものなのだろう。
「どうせうそなんでしょ、ハイハイ」と思いながらでも、表面上はうまく演じることも、あるいはできるかもしれない。
でも堺さんには、それができない。
自分の感情に正直な人だから、それをやってしまうと、そのままの自分が出てしまう。(しかも、試行錯誤の稽古中は特に、隠そうともしない ex,オリンへの「おまえバカだろーっ」発言しかり)
そんな自分では、作品に真実味を与えられない。作品自体にも、真実味がなくなってしまう。つまりは、いい芝居(どんな時代のどんな世界を描こうと、リアリティがあって、お客さんにも受け入れられて、その人たちの現在の状況や心境に響くところがあって・・・という力のあるもの)は作れない。
ということを、本気で考えている人なのだ。
自分がどうだ、とかそんなのはどうでもいい、「いい作品を作りたい」ということだけが、堺さんの真実。 
そういうアプローチの仕方だからこそ、出演する作品の多くで、「周りを引き立てつつ自分の存在感も出せる」「いて自然、いないと寂しい」という絶妙な立ち位置を獲得できているのだと思う。
考えてみれば、堺さんてものすごく矛盾している人なんだよね。作り話が苦手なくせに、作り話を演じることを生業としているのだから。「じゃあ何でやってんだよ?」ってつっこみはそりゃああるだろう。でも堺さんが芝居を愛し、芝居の神様に愛されているんだから仕方がないじゃないか!それに、どんな世界でも、ものすごく冷静な目を持つ人のほうが、うまくやれることって、結構あるのかもしれん。


 
そんな堺さんに、修ちゃん先生役はまさにハマリ役だと思う。
だって、修ちゃんは、「みえる」と「みえない」の狭間で苦悩したり、自分には見えなかった世界や夢や憧れを、愛する人(はぐちゃん)を使って果たそうとしているだけなのではないか、愛する人のためではなくただの自分のエゴなんじゃないか・・・という考えから抜け出せなかったりしている、優しくてあたたかな大人の役だから。
しかも、堺さんは、今まで自分の中にはなかった「ハチクロ」の世界に深く入っていって、自分と修ちゃんのリンクポイントをみつけ、なおかつ「自分が演じる上での柱となるもの」(=「在すがごとく」接する)まで見出しているんだもの。
すごいなあ、堺さん。
ハチクロ」ファンの中でも、こんなこと考える人はそんなにいないのかもしれない。
しかも、修ちゃんって、重要なキャラクターではあるけれどメイン5人の中には入らないんだよ?!たぶん映画でも。いちおう原作でもそうですが。なのにこんなに深く深く考えて演じようとしている!
・・・ということにふと気付いて、
ああ本当に、堺さんにとっては、役や作品の大きさ・小ささなんて、まるで興味のないことなんだ。関係ないことなんだ。自分のためじゃなく、周りの人のため、いい作品を作るには、自分に何が出来のか考えて、とことん誠実にやり通そうとしているだけなんだ。しかもそれを喜んで楽しそうにやっているよ!
としみじみ感じられてきた。 
そして改めて、堺さんのその柔軟性、寛容さ、賢さ、教養の深さ、誠実さ・・・すべてに感服してしまう。
なんて、すごい人なんだろう。
こんな人、他にはいない。世界中の、どこを探しても。
こりゃあ、とんでもない人を好きになっちゃったな、私。
これからの人生において、ここまで敬愛できる人、現れるのであろうか?!
それくらい、好きです、愛しています、いつまでもお慕いしています。

 

・・・あーーーー!!!(ついに発狂)
真面目に書きすぎた!!
こっからせめて最後までくらいは、妄想ワールド全開でいかせてくらはい。
堺さんがハチクロ読んでる図・・・妄想してただけに、嬉しい!わはーーい(≧∇≦)b
堺さんのことだから、脚本だけで演技プランを立てるとは到底思えなかったのです、ワタクシ。(堺ファンは大体そうだろうと思う)
しかも、ホント真剣に読んでいるみたいで(写真ではなんか嬉しそうだし)、その上的確に物語をつかんでくださってて超嬉しい!!そーだろう、ウミノ先生よ!私も、ハチクロファンとして、嬉しい限りです。
手にしている・・・8巻の・・・ああ、あの修ちゃんの感涙の名場面を・・・
私(たち)と同じように読んでいらっしゃるのですね(TДT)  
自分の好きな人が、自分と同じ本(しかも自分がものすごく好きな本)を読んで、いろんなことを感じてくれたり、時には同じようなことを考えていたりして・・・というのは、本好きの私にはちょっとたまらないものがあります。「あら、私と堺さん、考えが似ているわーーテヘッ☆」なーんて錯覚しちゃうね?!妄想しちゃうね!!
あああ、つくづく、ハチクロファンで、堺ファン(マニアあるいはオタクともいう)でよかった!!今、すごく幸せな気分。
来年の夏が待ちきれないよ!!つーかとりあえず一刻も早く、映画の公式HP作ってくれえ(>Д<) ほんで、いろんな情報をアップしてくれえ。さしあたってはメイン5人以外の配役をそろそろ発表してくれぇーー(切実)



おまけ。
映画ハチクロ共演者(♂)のブログを見ると、その人が堺さんをものすんごく慕って(というか愛して)いる様を描いてあって、くやしい!!キーーッ!!となった。ファンにとっちゃ、堺さんといろいろお話していること自体がうらやましいんだよぉ!!
ちくしょー、お前なんかにゃ負けねぇ!
私だってこれからもっともっと「ブログの中心で、(堺さんへの)愛をさけ」んでやるーー!ヽ(`Д´)ノウワァァァン
(はいバカ決定)
(しかもこの言い回しがちょっともう古い・・・?_| ̄|○