角田光代「対岸の彼女」

はいこれ、ようやく感想文です。対岸の彼女
角田光代は、私的には
○説明が多い
○そこ、もう少し深く書いてほしい、というところで、あと少し突っ込みが足りない
○登場人物たちに、「つくられた」感がありありと出ていて、すこし不自然
と感じられてしまい、やっぱり苦手なんだなあ・・・と思いつつ、
それでもさすが、直木賞受賞作。
「おっ」と思える部分はいくつもあった。
例えば、

おとうさん、なんであたしたちはなんにも選ぶことができないんだろう。(中略)
なんのためにあたしたちは大人になるの?大人になれば自分で何かを選べるようになるの?

の部分は、いつまでも「こども」でしか過ぎない現代人(無論、私も含む)にとっては、ぐっとくるところだった。
ひとは自分でなにもかも好きなように選べる、なんて、大間違いだ。
実は何にも選べてなんかいないのだ。
偶然に、もしくは必然的に、なにものかによって「選ばされている」というのがほんとうだろう。
そして、「大人になれば〜できる」とことばに潜む、なんといううそっぱちよ!!
「ったく 大人になったくらいで何が変わるよ?
せーぜー腰が痛くなったり 駅の階段で息切れする位だ
いつだって帰りたいと思ってるけど 
そこが何処にあるのかすらわからないままだ」

ってハチクロ7巻で修ちゃんも言ってますよ。
・・・あー、ついついハチクロ話を持ち出してしまうな。
話は戻して、この話の何が一番いいシーンかって、
何がこの作品の成功ポイントかって、
ズバリ、「対岸の彼女」というタイトルですね。
そこからは容易に、
勝ち犬    ⇔ 負け犬
既婚・子持ち  ⇔ 独身・一人暮らし
主婦パートタイマー⇔ 女性起業家
などなどの比較が見えてくるわけだけれども、さいごのさいごでは
なーーんだ、みんないっしょじゃん
的なチャンチャン。感があるわけですな。
世の中、勝ち組だの負け組みだの必要以上に人々を二極分化しようとしているけれど、
根本的な悩みというか、抱えてる問題てのは結局同じものなのかもよ?
そんで、悩んでんのはみんな一緒なんだね、とほっとさせるのが、小夜子が最後に見る「風景」(=対岸の「彼女たち」に手を振り、先に架かる橋へとお互い走り出す)なんだな!!
うん、ここがあるからこの作品、なかなかよかったです。
WOWOWドラマで、ここが変なふうに映像化されていないことを祈るよ。
しかし、読んでみると、堺ファンたちが言ってた
「何でこの役を堺さんが??」
という疑問は容易に私にも浮かんだよ。
堺さんである意味、あんのかー?もったいない。
まあ、なかなかフツーの一般人を演じる機会がなかなか少ない堺さんなので、こういうのもいいのかもね、たまには。
なんにしても、
3歳児を抱っこする堺さん・・・(*´д`*)アゲイン。