文・堺雅人 第31回

今回のおはなしは、「型」。
さあていきなり出ましたよモンテーニュ「エセー」。
・・・雅人様、あんたいったいどれだけ本読んでるんですかorz
うう、毎月のように聞いたことがない書名を出される。これは読まねば、と思うのにまだちっとも読めてないつーか買ってもいない。「俳優修行」や「禅学入門」とかもはやく読まないとだなぁ、と思う今日この頃。でも誘惑に負けてついついしをん師匠の「まほろ駅前多田便利軒」を借りてしまった私。許して雅人様。直木賞受賞作だから(言い訳になっていない)。
エッセイの語源が「エセー(試み・試論という意味のフランス語)」からきているというのはプチトリビアでした。確かに「エセー」が書かれた当時においてこのような文章というのは相当目新しい試みだったんだろうなあと思う。
日本では相当古くから随筆なるものは登場してるわけですが、「随筆」という訳語にしたのには
「いやいや書かせているのは、アタシじゃなくて、この筆のほうなんで−−−」
という含みがあるようだ、と表現する雅人様、さすが。このエッセイ読んでひさびさにシャッポを脱いだね。なーんでこんな文章思いついちゃうの?すばらしい。あと、「アタシ」ってのがかわいすぎ(;´Д`)
さらに、バーテンダー役としてシェーカー素振りがとりあえずの日課になる、と書いておいて、

いやこれは別に、感心な俳優だとアピールしたいのではなく(それもあるけど)

と翻る雅人様に激萌であった。うふふっ、アピールしたいんだぁ!!(*´ -`)カ・ワ・イ・イ(´- `*) ←きもちわるいからやめなさい
そして、

人前に出る準備として、素振り練習などの「型」を身につけるのは、鎧のようにまとうことで安心したいからだろうし、「傷つきたくない」というのが本当の動機なのかもしれない

というところには思わずきゅんと切なくなった。「不完全な自分を人前にさらすことに抵抗がある」ひとなんだろうな、堺さんも。・・うん、私はよくわかる。そもそも完全完璧な人間なんていないのだろうから、それを目指すこと自体がバカげたことなのだろう、というのは分かっている。でも、それでもできるかぎりの準備や心構えをしておきたいのは、ちっぽけなプライドがあるからで、少しでも自分をよく見せたいから。不完全な自分に失望したり、誰かに笑われて傷つかないようにするため。誰も笑ったりしないのにね。
こういう弱さもときには垣間見せてしまう、しかもこんなふうにまわりくどくこむずかしくエッセイとして掲載してしまう堺雅人というひとが、私はやっぱり大好きだ。ほんとうに、もっともっとそばでこの人をみつめていたいと思う。いちばん近くでその思想を感じとっていたいと思うのだ。贅沢すぎる願望・・もとい、妄想ですが。
ああでも雅人様、最後にひとつだけ言わせてください。
戒名を手にとって微笑み、ドアップで写真に映ってしまうのはいかがなものかと。
そして、
「告別式で参加者がそれぞれ漢字を持ちよって投票で戒名をきめる」のはもっといかがなものかと。